約束までの時間を有意義に過ごすための独り談話室

離婚されるそうなので一人暮らし準備の為の心構えと今までの回想録(メモワール)

初秋の北国(ドイツ)、鼻の奥まで凍りつくが心はあたたかかった

今週のお題「紅葉」

 

マロニエル(マロニエ)の並木道沿いに、

町で一番大きな教会を目指して歩いて行くと、タンクシュテレ(ガソリンスタンド)の大きな電光掲示板にはその時の気温が摂氏で示されている。

「5度」

 

10月の、午前8:30の気温。

天気は晴れ時々曇り。

ワタシは、冷気と体温を鼻の中で調整しながら凍る自分の吐息をはずませ、マロニエの葉をカサカサと鳴らしながらいつものようにフォルクスホッホシューレ(市民講座:市民用専門講座)の教室のあるビブリオテーク(図書館)に向かう。

 

40過ぎで、夫の赴任先であるドイツに住み、

心の中は不安よりも好奇心でいっぱいで、

ドイツ語は挨拶すらあやしくて、

だけど心からドイツにいられて嬉しくて、

渡独後1ヶ月半でVHS(市民学校)の申し込みをした。

 

英語は禁止、同国人同士のおしゃべりは禁止、宿題は毎日、宿題を忘れると先生の容赦ない嫌味が飛ぶ。

結構厳しかったが、少しずつドイツ語で会話が出来る喜びが、異国の同級生とお互いの身の上を話せる喜びが、少しずつ満たされるのが何より嬉しかった。

 

「来年の春には日本に帰るんだ。」

 

そういうワタシに、中欧から来たKは、顔を曇らせてこう言った。

「旦那だけ帰してリンカはドイツにいられないの?

こっちで働けばいいじゃない。」

Kは中欧の人独特の、温かで文学的な物言いがハッとさせられるような美しい知性と感性の持ち主で、ワタシは彼女が大好きで、

彼女もまた、よくワタシを誘って買い物だ、サイクリングだと一緒にいてくれた、大切な友人だった。

 

「夫の会社のお金でここにいるから、仕方ないんだ。」

「・・・旦那と離婚したら?リンカならこっちでも大丈夫だよ。

ねえ、ドイツに残りなよ。」

 

泣きたくなったのは、Kが独特な彼女の感受性をもってその当時から既に、ワタシの家庭の冷たさ、ひいては夫の何か冷たい部分をそこかしこから感じ取っていたので、こういう発言が出たのだ。

Kは、少しだけ後悔したように

 

「Es tut mir leid....aber...( ゴメン、でもね・・・)」

Kは言いかけて、その薄いヘイゼルの瞳を見開いて、無理に微笑ってコーヒーを呑んだ。

ワタシは、自分の小ささに嘆くより他無い、ただの駐在の奥さんで、

そんなワタシでも彼女や他の同級生も、少なくともその場ではワタシを愛してくれた。

たくさん、議論(ディスカスィオーン)した。

自分たちの歴史、文化、恋愛、生活様式、戦争、将来の夢・・・

とんでもなく下手なドイツ語を、一生懸命に聞いてくれ、共に語り合い、笑い合い、時々泣いた。

 

プラタナスマロニエルが黄色くなって落ち葉がつもるころ、

ワタシは一年半通ったVHSを辞めた。子供の受験を機に帰国が数カ月後にせまっていた事もあり、区切りをつけたのだ。

VHSの最後の講座は、他の同級生のテストもあったことからかなり実践的に会話をしていたと思う。

ABC(アーベーツェー)もまともに言えなかったワタシタチが、

この頃になると新聞記事を題材に論じあうことまで出来たのは一重に先生の厳しくも愛のある指導と同級生たちのおかげだった。

「故郷って、どういうもの?自分の意見を言って。」

 

先生に促され、ひとりひとり発言していく。

ある者は自国の自慢話で、ある者は家族のいる場所が故郷といい、ある者は生まれ育った町の細かな描写で、心打たれた。皆、外国人の寄せ集めだ。故郷の話に、言葉を尽くしても尽くしても溢れてくる愛情を感じた。

ある者は故郷に帰りたい、ワタシの本来いるべき所が遠くにあるのは悲しい、毎日夢にみる、と泣いた。

うらやましい、と思った。

その時のワタシは、心底日本に帰りたくなかったからだ。

そもそもワタシは子供の頃から、引っ越しの連続で、あまりひとつの処に住んだ事がなく、郷愁という感覚が非常に乏しい。自分の故郷などない、寂しい人間だ。でも、だからこそ____

拙いドイツ語で自分のこれまでのそういう環境を簡単に説明したうえで、こう言った。

 

「ワタシは、こう思う。

自分が居たいと思う所が、自分の故郷。

生まれた所、育った所は関係ない。ワタシの故郷は、これからワタシが決める。」

 

先生は不敵に笑い、同級生は頷いてくれた。

Kは、泣き笑いしながら、マスカラが落ちるのを気にしていた。

その日の帰り道、ワタシは歩道に山積みになったマロニエルの葉に足をとられながら、涙が流れるのをこらえきれなかった。

 

毎日が夢のような、でも激しくぶつかるような、不思議な空気の中で、貴重な体験をしてきた。

慌ただしく帰国してから、もう数年経つが、何故かあの頃の思い出はまるで褪せることがない。

 

足にやさしく、石畳やアスファルトを感じないほどのマロニエルの落ち葉を踏みしめる事が出来ない今、毎日の忙しさの中で風化していくあの頃の友人達との繋がりに、寂しさも後悔もひとしきり感じながら、

自分の故郷を未だに探している最中のワタシの体たらくを、

Kが見たら、果たしてどう思うだろうか。